★岩手山噴火危機における科学者と防災行政担当者間の意思伝達
土井宣夫(岩手県総務部総合防災室)
斎藤徳美(岩手大学工学部建設環境工学科)
Communication between scientist and crisis managemnt officers in the eruptive
crisis of Iwate Volcano
Nobuo DOi,Genenral Disaster Prevention Office,Iwate Prefecture Tokumi Saito,Faculity
of Engineering,Iwate University
1、はじめに
岩手山では、1995年9月15日に東岩手山のやや深部でその後の火山活動の前兆となる火山性地震が観測されて以来、浅い火山性地震が観測されるようになった。その後、西岩手山でも地震が観測され始め、1998年2月中旬から地震が多発して火山体の伸張も始まった 1)。同年9月3日岩手山南西方を震源とする岩手県内陸北部の地震(M6.1;注1)が発生、長さ約800mの篠崎地震断層が出現するとともに震度6弱の揺れで岩手県最大(当時)となる79億円の被害を生じた。1999年3月頃からは西岩手山で噴気活動を含む表面現象が顕著化し始め、2000年まで活発化の一途をたどった。2001年頃から地殻変動は膨張から収縮み転じ、噴気活動も緩やかな低下傾向が始まり現在に至っている。これが岩手山噴火危機の経緯である。
岩手山は県都盛岡市の北西約20kmに位置する塩基性安山岩〜玄武岩からなる標高2,038mの大型の成層火山である。岩手山は過去6千年間にも大規模な山体崩壊やスコリア噴出、火砕サージ、火山泥流などを発生し、山頂噴火の場合には玄武岩質火山としては爆発的である。岩手山麓には岩手山を起源とする岩屑なだれ堆積物が広く分布し、この堆積物上に盛岡市をはじめとする6市町村約38万人(雫石町・西根町・滝沢村・玉山村・松尾村)が居住している。この意味で6市町村は火山活動の影響圏内にあるといえる。
岩手山の火山活動は平安時代(915年)以降「第4活動期」 2)に入り、東岩手山で2回の山頂マグマ噴火(尻志田スコリアと大川開拓スコリアの噴出、一本木原岩屑なだれの発生)、1686年山頂マグマ噴火(刈屋スコリアの噴出)、1732年山腹マグマ噴火(焼走り溶岩の噴出)がある 3)。一方、西岩手山では15〜17世紀頃 4)と1919年に大地獄谷で小規模な水蒸気爆発がある。しかし、大規模なマグマ噴火から既に260年余が経過して地元には活火山の山麓で生活しているとの認識は無くなり、「地域防災計画」にも火山対策が検討されることはなかった。
このような状況下で岩手県は1998年2月中旬岩手山噴火危機を迎えた。岩手県の火山防災対策は火山活動の進行に追い立てられて文字通り零からの立ち上げを迫られ、一方住民にも有感地震の増加とともに危機感が高まり、岩手日報紙時事川柳(6月29日)には「岩手山だんだんキレてくる不安」と詠われた。そして1998年9月3日岩手県内内陸北部の地震で被災すると、それまであった「防災・火山関係者は不必要に騒ぎ過ぎている」といった批判は全く聞かれなくなった。岩手山噴火危機への対応経緯は、地元で火山防災対策を指導している斎藤徳美岩手大学工学部教授により科学者の視点でまとめられている 5〜12)。また、火山観測の視点から浜口博之東北大学地震・火山噴火研究観測センター教授が(浜口、2003) 13)、気象庁(仙台管区気象台)の視点で西出(1999) 14)と吉川(2003) 15)がそれぞれ火山防災について述べている。本発表では「科学者と行政担当者間の意思伝達」の視点に立ち、改めて岩手山噴火危機対応について述べる。なお、関係機関・組織名は当時の名称で記述する。
[注1]本地震のマグニチュードは2003年の気象庁の見直しにより6.2に変更された。
図1 1998年〜2003年の岩手山噴火危機に対する岩手県の対応経緯
2、噴火危機を迎えた地元の状況
岩手山噴火危機に直面した時、地元の火山防災の状況は次の通りであった。
行政:火山防災マップは作成していなかった。建設省東北地方建設局岩手工事事務所は国の「火山噴火警戒避難対策事業」に基づき岩手山の火山噴火に伴う種々の土砂移動現象から住民の生命を守るため、1995年度から「火山災害予想区域図の作成」と「火山災害監視システム計画の策定」を柱とする「火山噴火警戒避難対策計画」を1998年度までに策定することにしていた。しかし、これは住民避難をを含む防災対策でがなく不公表を前提としていた。また、「岩手県地域防災計画」に火山対策は含まれず、こうした岩手県の火山防災行政の改善に科学者が積極的に取り組むことも無かった。
気象庁と科学者:岩手山は常時観測火山に指定されておらず気象庁の観測は手薄せあったが、1995年9月火山性微動が観測でれて以来、気象庁は2台の地震計を設置、1997年から東北大学の3台の地震計データを仙台管区気象台に分岐して合わせて5台の地震計で常時観測を始めていた。 14)。岩手山麓には大学施設としての火山観測所が集約されていた。浜口博之同センター教授らは1981年以降年次的に地震計、体積歪計、傾斜計も高感度観測体制を整えて1995年9月の前兆現象(火山性微動)を捉えるとともに、GPS、磁力計等さらに設置して観測体制の強化を図り噴火危機を迎えた。一方地元では、民間人(土井;当時)が岩手山の噴火史研究を実施していたものの地元大学に火山学教室はなく、浜口教授を除いて火山防災の経験者もいなかった。
報道:報道関係者に火山および火山防災の知識は無かった。
住民:住民発言「岩手山が火山であることを知らなかった」に象徴されるように、地元住民に活火山の山麓で生活しているとの認識は無く、火山および火山防災の知識は皆無といった良い状態であった。
岩手山噴火危機当時の岩手県は以上のような状況であったが、噴火危機以前から産学官の交流が行われて地震・津波防災等において科学者と行政の間に連携と信頼感が培われていた事、噴火危機以前の1997年11月29日の産学官組織であるINS「地盤と防災研究会」が「岩手山の最近の活動と火山防災」と題する集会を開催して啓発を開始し、火山防災対策の機運が地元に芽生えていた事が特筆される。
3、火山対策の経緯概要
図1は1998年〜2003年の岩手山噴火危機に対する岩手県等の対応経緯を示したもので、火山活動(「火山性地震日回数」と「黒倉山山頂噴気の強さ」で示す)の進行に追い立てられるように実施した対応となっている。地震回数は1998年2月中旬から7月中旬まで増加し続け、6月中旬から7月中旬には1日100回を越える地震が発生、7月下旬から地震回数は減少し始めたものの多い状態が続いた。東北大学研究者の後日の解析によると 16)、1998年2〜4月に2回、8月に1回のマグマ貫入が推定される。この期間は岩手県内が火山噴火を想定して緊迫した時期で、県及び6市町村の災害警戒本部、火山活動並びに火山災害対策の検討会・委員会、6市町村並びに防災関係機関連絡会議の設置がなされ、7月1日から岩手山への入山が規制された。また岩手山火山防災マップが岩手山西側、次いで岩手山東側を対象に相次いで公表された。9月3日岩手県内陸北部の地震発生、岩手県西方滝ノ上温泉に孤立した観光客100名をヘリコプターで救出する事態が生じた。この地震を機に火山防災対策は一段と活発化した。
1999年から2000年3月の期間は火山性地震の回数が次第に減少したもののマグニチュード3を越える有感地震が間歇的に発生し、岩手山西側では噴気活動が次第に活発化して1999年11月12日に振幅の大きい火山性微動が発生してあわや「噴火か!」と緊張した時期を挟んでいる。この時期は岩手山の「第2の活動期」で、避難経路・避難所を明記した大縮尺の「岩手山火山災害対策図」が住民に配布され、「緊急対策並びに火山防災ガイドライン」、火山砂防・治山計画されて可能な部分から実施に移された。
2000年4月以降、地震回数は漸減し火山性地殻変動もほとんど観測されなくなった。火山活動が長期化する中で不況による観光客の落ち込みなどがあり、地域振興の観点から火山表面現象の目立たない岩手山東側の入山規制緩和が強く要望されるようになった。そこで盛岡地方気象台による火山観測情報(臨時火山情報以上)の発信とそれに合わせた緊急通報装置の起動、登山者の自己責任の啓発を行う等の安全確保の体制を整えて2001年7月1にから東側の一部一時規制緩和を実施した。 9)。2002年以降も同様な処置が行われ現在に至っている。
気象庁による火山観測情報は1998年から1999年に臨時火山情報が9回(火山噴火予知連絡会の検討内容を公表する臨時火山情報を除く)発表されている。この中で1998年6月24日の臨時火山情報第2号は「今後さらに火山活動が活発化した場合には噴火の可能性もある」とされた。これを受けて岩手県と6市町村は災害警戒本部を設置、5月1日「岩手山地震災害警戒本部」を立ち上げていた岩手県警は「火山災害警備警戒本部」に改組し、独自判断により岩手県警ヘリコプターで下山を呼び掛け、登山道入り口で入山者チェックを開始した。こうして事実上の警戒態勢が開始されたが、各機関単独の判断による不一致が混乱の源になることも懸念され、判断の根拠、判断の主体、対応を緊急に明確にする必要に迫られた。
臨時火山情報第2号の発表時、火山防災上必須である岩手山火山防災マップ(ハザードマップ)は作成されていなかった。前述のように岩手山噴火危機前から「火山噴火警戒避難対策計画」の中で「火山災害予想区域図」が作成されつつあった。しかし、これは砂防事業を目的とするもので住民避難を含む防災マップではなく、住民に公表しないことを前提としていた。このため実際に進行している噴火危機には対応できなかった。そこで1998年7月8日建設省岩手工事事務所と県は「岩手山火山災害対策検討会」を新たに組織し、住民避難を含む火山防災マップの作成に取り掛かった。そして14日後の7月22日噴火の差し迫っていると判断された岩手山西側の「岩手山火山防災マップ<西側で水蒸気爆発が起きた場合>」を公表し、10月9日東側を含む「岩手山火山防災マップ<西側で水蒸気爆発、東側でマグマ噴火が起きた場合>」及び「火山防災ハンドブック」を公表した。9月3日岩手県内陸北部の地震が発生した際に震源地に近い岩手山南麓の住民の一部は火山防災マップに従って指定避難所に避難した。
4、科学者から行政担当者への意思伝達
図2に岩手県の火山活動に関する情報連絡体制を示す。図中「岩手山の火山活動に関する検討会」の存在が鍵となっている。日本の火山活動評価は気象庁長官の私的諮問機関「火山噴火予知連絡会」が関係機関の火山観測情報を集めて総合的に検討、科学的評価を行い、「統一見解」または「全国の火山活動について」まとめて発表している。しかしながらその内容は行政担当者には難解な上、求められる火山対策の具体的な記述はない。また、年3回の定例会と随時の臨時会では進行する噴火危機に対応することは難しい面がある。このため県は火山活動の評価に関して「火山噴火予知連絡会」との二重構造を避けつつ、火山活動の適時、適切な把握とかみ砕いた言葉による行政への助言を目的とする「岩手山に火山活動に関する検討会」を設置した。この検討会には、異論はあったかもしれないが盛岡地方気象台台長が委員会として加わり、県として判断する体制としたことは画期的であり、検討会委員は踏み込んだ助言をすることを決意していた。
火山情報を発表する気象庁内部にも当初混乱が見られた。盛岡地方気象台は「臨時火山情報」の発表を行ったが、地震・火山専門家はおらず地元の報道関係者の質問に十分答えることができなかった。一方、火山情報を受け取る行政側にも内容を理解できる火山担当者は不在であった。このため盛岡地方気象台に1998年7月地震・火山専門家が配置され、県消防防災課に1998年9月10日火山対策監1名(課長級)・監補佐1名・主査2名が配置された。
図3 テレビ・電話会議システムを用いた緊急火山情報の連絡・検討体制図
図3は緊急時の火山活動情報の連絡・検討体制である。火山観測情報をもつ東北大学観測センターと盛岡地方気象台、岩手県さらに「岩手山の火山活動に関する検討会」座長のいる岩手大学工学部をテレビ会議システムで繋いでいる。このシステムを稼動させた緊急事態は3回(図中)あったが、その検討状況の一部は緊急の火山活動状況を理解してもらう目的で報道関係者に撮影抜きで公開された。
5、科学者間の意思伝達
岩手山噴火危機では火山防災に当たる地元科学者は、他府県(特に”中央”)の科学者との意思疎通に苦しみ、地元の科学者間の意思疎通にも配慮した。他府県、特に”中央”の科学者の報道への投げ込みは、1)他研究機関の観測情報との整合性が協議・調整されることなく行われて地元報道機関が混乱し、その解決を地元科学者が背負わせたり、2)地元の防災対策の進捗が考慮されることなく行われて住民の中に地元火山対策に疑義を生じかねないような事態が生じ、その対応に地元科学者が奔走させられたりした。こうした他府県(特に”中央”)の科学者による報道への投げ込みは、国立研究所が独立法人化される時期に当たりまずは自機関の業績強調をとの意図と、火山防災意識、特に防災現場への配慮の希薄さが感じられ、地元の科学者に怒りをもって迎えられた。
このため、問題の投げ込みを行った機関・研究者には地元科学者から逐一返答し協力を要請した。 11)。すなわち、1)報道への公表に当たっては単に生データの投げ込みといった形ではなく、調査の意義や精度、どのような意味を待つかといった平易な講義も含めて、報道関係者が内容を理解し正確に報道できるように配慮すること、2)可能ならば調査結果は火山噴火予知連絡会、岩手山の場合は多種の測定を行っている東北大学地震・噴火予知研究観測センターなど総合的な検討機関に提出して頂き、一定の検討を経た上で報道機関へ公表する機関に所属するのは当然として)、また、現地調査を実施する場合は調査目的、日程等を連絡して頂くことを要請した。この要請により公表情報による地元の混乱は次第に解消された。
他府県(特に”中央”)の科学者との意思疎通の難しさは、火山学者間のインターネットを通した噴火シナリオや噴火確率の議論が地元に伝わったことでも生じた。噴火危機当時の社会には噴火シナリオや噴火確率をもとに行政担当者と意思伝達を行い、火山防災対策を推進する体制は構築されなかった。また、地元行政担当者および住民の最大関心事は「噴火するかどうか」にあって噴火確率の数字は刺激的であった。こうした状況から、これらの議論は火山学者間の閉鎖系の中でまず慎重になされるべきであり、報道関係者を含む一般人がアクセスできるものであってはならないと判断した。また火山学者のホームページなどは誤解を招くようなセンセーショナルな表現は自制すべきである。
一方、地元の科学者間の意思疎通にも配慮を要した。火山防災対策に対する地元科学者の考え方と行動は多様であり、多くの科学者が協力的であった。しかし、例えば「火山防災マップ」の内容等で科学者間の意見の相違が顕著化した場面もあった。行政担当者と科学者は「火山防災マップ」の公表とともに住民説明会を開催して協働で内容の周知を図ったが、地元科学者からマップ中の避難所の位置が火山泥流の流下予想域内にあるのは誤りであり、報道を通じて誤りを公表したいと強い主張があった。この避難所は火山泥流流下予想域内ではあるが火山泥流がおよばない高台にある事から村担当者が設定したものであったが、噴火危機が進行する緊迫した状況下で「火山防災マップ」の住民への浸透を第一とし不信感を醸成するのは避けたい旨をもって説得し了解してもらった経緯があった。
6、行政担当者から科学者への意思伝達
岩手山噴火危機に際して増田寛也岩手県知事は「災害対策基本法上避難勧告は首長判断であるが自分が判断して助言する」との決意を示し、東岩手山が噴火した場合大きな被害が想定される柳村純一滝沢村長は「自分が決断し、仮に空振りであっても避難勧告を出すから火山情報を伝えてほしい」との決意を科学者に伝えた。これらにより行政の方向が定まり、科学者もより積極的な発言が可能になった。その一方で某首長は「自分は火山のプロではなく県が判断しそれを村に連絡してほしい」と住民を前に発言した。その発言には「自分が住民を守る」との首長としての気概が感じられないものであったことから住民の顰蹙を買うとともに、県防災責任者から「火山専門家ではなくとも行政のプロとして火山情報を共有し自ら判断していかなくてはならない」と自省を促される一幕もあった。日本で最初の総合的な火山防災の指針である「岩手山火山防災ガイドライン」(2003年3月策定;図1)は、「地域の安全は行政機関・防災関連機関・学識者・住民が連携して、それぞれの役割を遂行することにより、初めて守られる」ことを基本理念のひとつに挙げており、首長の自覚が強く要請されていた。
また、岩手山噴火危機では行政が火山観測・監視に積極的に協力したことも特筆される。1999年春以降西岩手山の黒倉山〜姥倉山間稜線を含む東西約2.3km、南北0.75kmで噴気活動が活発化し始めると、県はこれを監視するため地震計2台と地温計5台を設置し、観測データを気象庁と大学に提供した。1999年と2000年には岩手山人工地震探査用発破孔の提供を行っている(図1)。これらは県単独予算で実施された。また、建設省岩手工事事務所は観測情報の共有化を目的として岩手山を取り巻く光ケーブル網を設置し、監視カメラ映像等を岩手県・防災機関・6市町村等に配信している。このように行政が科学者の要望を受け止め、自らできることを実践して観測・監視の強化を図ったのは、行政管理者と地元科学者間の日頃の意思疎通と信頼感があったからである。
7、人と人の繋がり〜産学官連携のINS「岩手山火山防災検討会」の活動〜
岩手山噴火危機以前から岩手県には岩手大学を中心とする産学官からなる連携組織INS(Iwate Network System)が様々な目標に向けて活動しており、そのひとつ「地盤と防災研究会」が1997年11月29日「岩手山の最近の活動と火山防災」関する集会を開催して啓発を開始していた事は前述の通りである。その後、火山性地震が頻発し始めた1998年5月16日、同研究会の中にINS「岩手山火山防災検討会」を立ち上げ、地域の安全を目的に研究者・行政・報道機関の連携を図るためざっくばらんな議論と実務的な防災対策を実施して、行政の公的な委員会を支える重要な役割を担った。
この検討会を構成するのは岩手大学工学部を事務局として同教育学部・農学部、東北大学地震・噴火予知研究観測センター、岩手県立大学看護学部などの研究機関、建設省東北建設局岩手工事事務所、国土地理院東北地方測量部、盛岡営林署、盛岡地方気象台、陸上自衛隊岩手駐屯地など国の機関、岩手県と周辺市町村の防災担当者と岩手県警察本部、広域消防組合、岩手県山岳協会、そして日本道路公団盛岡管理事務所、NTT(株)盛岡支店、東北電力(株)岩手支店、JR東日本(株)盛岡支所などの公益法人、民間企業の担当者、さらにテレビ・新聞などの報道機関である。この検討会への参加はあくまでも個人の意思によるもので、議論や防災実務への参加も同様としている。
検討会の主要な活動は、地域の安全・減災のための科学者・行政・報道機関の連携体制の立ち上げ、公的な委員会では協議できない実務的な防災対策の検討や機関相互の調整、火山観測データの共有と認識の深化、民間機関の火山観測協力体制の構築、火山情報の整合性の検討と正確で分かり易い火山情報の提供による「学者災害」と「情報災害」の防止、地域住民・学生・生徒への防災啓蒙等である 10)。なお検討会を機会として業務の受注ができ、企業間の技術提携が進むことを是としている。
このように岩手山噴火危機に直面して産学官の連携の中で利害関係の少ない地元岩手大学がリーダーシップを発揮して行政、情報機関等と連携し、人と人が繋がり、形に拘らない実務的な防災対策を進めたことが岩手県の火山防災体制を速やかに構築できた理由と言える。このような産学官連携による火山防災対策の取り組みは”岩手方式”と呼ばれ、有力な実施方式と評価されるようになっている。
図4 岩手山噴火危機に直面した地元岩手県の火山防災体制構築までの流れ(模式図)
8、終わりに
岩手山噴火危機は、高感度・高密度の火山観測体制が構築され、詳細な噴火史の把握がなされていた事とともに、未経験の噴火危機ゆえに対応初期に明瞭に発現した行政の縦割りの弊害と防災対策の不一致も行政管理者の強い決意と科学者自らが責任を取るとの決意に基づく行政への積極的な働きかけとリーダーシップ及び行政と科学者ならびに民間(報道・産業・住民)からなり自由な討論を前提としたINS「岩手山火山防災検討会」の活発な活動により得られた情報の共有と相互理解ならびに信頼感により火山対策が具体的にしかも急速に進展して乗り越えられつつある。火山防災体制の急速な構築が可能となった背景には、進行する噴火危機が社会に緊迫感をもたらしていたことがあった(図4)。
岩手山の活動の低下が認められる現在、入山規制の解除を含む安全対策の実施とともに、「人つくり・核つくり・記録保存」を図りつつ、岩手山噴火危機の経験を基に県内3活火山(秋田駒ケ岳・栗駒山・八幡平)の防災対策を着実に進めることが望まれる。
引用文献
1) 植木貞夫・三浦哲(2002)1998岩手山周辺の火山・地震活動.地学雑誌,111,154-165.
2) 土井宣夫(1999)岩手山の縄文時代以降の噴火史.月刊地球,21,257-263.
3) 土井宣夫(2000)岩手山の地質〜火山灰が語る噴火史〜.滝沢村教育委員会,234p.
4) 伊藤順一(1999)西岩手火山において有史時代に発生した水蒸気爆発の噴火過程とその年代.火山,44,261-266.
5) 斎藤徳美(1999)岩手山火山防災マップ.月刊地球,21,317-322.
6) 斎藤徳美(2001)岩手山の監視と防災体制.月刊地球、23,754-759.
7) 斎藤徳美・越谷信・山本英和・野田賢・佐野剛・土井宣夫(2001)
報道機関と連携した岩手山火山防災対策の取り組み。日本災害情報学会第3回研究発表大会予稿集,28-49.
8) 斎藤徳美(2002)生きている火山、岩手山〜共生への4年間の取り組み。山が動く、(社)
地すべり対策技術協会東北支部,7,2-24.
9) 斎藤徳美・山本英和・佐野剛・土井宣夫(2003)岩手山入山規制緩和にむけた登山者安全対策の構築.
自然災害科学,22,59-74.
10) 斎藤徳美(2003)岩手山の火山活動と防災対応の経緯〜共生へ5年間の取り組み
1998年〜2002年.岩手大学,196p.
11) 斎藤徳美(2003)岩手山火山防災への提言〜共生をめざした5年余の模索
1997年〜2003年(1)、(2).INS岩手山火山防災検討会、資料.
12) 斎藤徳美・土井宣夫(2003)岩手山の火山対策工.
斜面防災・環境対策技術要覧、産業技術サービスセンター(印刷中)。
13) 浜口博之(2003)岩手山の火山防災と防災対応。「火山活動の評価手法の開発と火山防災情報に関する研究」
報告書、京都大学防災研究付属火山活動研究センター、19.
14) 西出則武(1999)岩手山の観測・監視と情報発表。月刊地球,21,269-272.
15) 吉川一光(2003)1998年以降の岩手山火山異常における火山情報と地元対応。
「火山活動の評価手法の開発と火山防災情報に関する研究」報告書、
京都大学防災研究付属火山活動研究センター,18.
16) 佐藤峰司・浜口博之(2001)地殻変動観測から推定された1998年〜1999年の岩手山のマグマ貫入プロセス.
日本火山学会講演予稿集,no.2,91.
Proceedings of International Workshop on Strategy of Volcanic Disaster Mitigation September 24th-27th,Tsukuba and Fuji-yoshida,Japan